今回は、元の東洋拓殖・釜山支店で、
現在は釜山近代歴史館となっている建物を
見学したときの様子をお届けします。
旧 東洋拓殖株式会社・釜山支店。釜山近代歴史館に行ってみた!
東洋拓殖株式会社とは・・・。
今回、釜山の旧 東洋拓殖・釜山支店の建物を訪問するまで、
「東洋拓殖」という会社があったことを全く知りませんでした。
「東洋拓殖―幻の国策会社」という本には、
東洋拓殖の設立のことが次のように書かれています。
一九〇八年(明治四十一年)八月に公布された東洋拓殖株式会社法に基づいて、
日韓両国人を株主とする資本金一、〇〇〇万円の東洋拓殖株式会社が設立された。
東拓は当初、その事業地域を韓国とし、その業務は⑴農業、⑵拓殖のため必要な土地の売買および貸借、⑶土地の経営および管理、⑷建築物の築造、売買および貸借、⑸日韓移住民の募集および分配、⑹移住民および韓国農業者に対し拓殖上必要な物品の供給、ならびにその生産または獲得した物品の分配、⑺拓殖資金の供給であった。
事業地域が「韓国」とは書かれていますが、当時の「大韓帝国」のことを指していると思います。
平壌にも出張所が設立されていますので、実際は、朝鮮全土が当初の事業地域だと思います。
日韓併合は1910年なので、その2年前に朝鮮半島の開発や近代化を目指していたというのは、
とても興味深いです。
国策会社として設立したのは、民間の事業としては採算が合わない、土地の開発や農業の振興や普及を中心に行ったからのようで、税金なんかが優遇されていたようです。
▼今回参考にした書籍。「東洋拓殖―幻の国策会社」 大河内 一雄 著
東洋拓殖・釜山支店までの道。
この時は、旧 慶尚南道庁舎の東亜大学校博物館を見学したあとに、
徒歩で旧 東洋拓殖・釜山支店に向かいました。
11月の晴れた午後で、歩いていても気持ちよかったです。
途中、立派な教会や、キムチの仕込みの風景や、古本屋街があって、
街なみをいろいろと見ながら歩いて、なかなか楽しかったです。
▼歩き始めてすぐにあった、釜山永楽教会。
▼白菜がたくさん
▼漬物工場でしょうか。キムチの仕込みをやっていました。
▼本を積んでいるオブジェに遭遇・・・。
ちょっと寄り道してみます。
▼何か記念碑があります。
▼宝水洞古本屋街(宝水洞本屋通り)という古本屋街でした。
▼特定の角度から文字に見える、現代アート(?)もありました。
▼古本屋さんが軒を連ねています。
▼国際市場に続く道
▼紅葉がキレイな秋の日でした。
東洋拓殖・釜山支店、外観
徒歩10分くらいで、旧 東洋拓殖・釜山支店に到着しました。
旧 慶尚南道庁舎を見学した後だったので、想像より小さかったです。
国策会社とはいえ、企業の建物ですから・・・。
当時としては立派だったんだと思います。
東洋拓殖・釜山支店の建物が建てられたのは、
釜山近代歴史館の公式HPによると、
1929年9月だそうです。
戦後は、米軍が接収して使用し、
1999年に韓国に返還され、現在の近代歴史館として開館したのは2003年だそうです。
外観は結構シンプルなつくりです。
一階の窓の形がアーチ型で西洋っぽくなっています。
エントランスも大きくなく、おとなしめのデザインです。
角地に面している部分の壁が曲線になっていて、優美な感じでした。
▼旧 東洋拓殖・釜山支店
▼逆側から撮影
▼角のところの壁は曲線になっています。
▼エントランス。企業の建物と考えるとこれでもおしゃれですね。
▼アーチ型の窓。当時もこんなデザインだったんでしょうか。
▼エントランス脇にあった銘板。
▼こちらから入館させていただきました。
▼入口にあった案内板。開館時間は「9:00~18:00」、入場無料です。
フラッシュや三脚を使用した撮影は禁止のようですので、
フラッシュなしで館内を撮影させていただきました。
釜山近代歴史館 日本統治に手厳しい展示内容
館内の展示は、日本語でのキャプションもあって、
戦後の韓国の歴史がわかります。
ただ、その内容はかなり日本に厳しい内容。
この辺は日本人でも意見が分かれると思いますが、
個人的には、戦後につくられた反日のストーリー沿って
書かれているキャプションが多いと思いました。
たとえば釜山の港の開港については次のようにありました。
釜山の近代開港は日本の商人による朝鮮侵奪の皮切りとなった。日本との貿易においては関税がなく、日本の貨幣が自由に通用した。結局、釜山の近代開港により朝鮮が自主的な近代社会に発展していく道が遮断され、日本を始めとした西欧帝国主義が構想する植民地の基点となった。
当時の朝鮮は近代化とは程遠い状態で、何度も日本が近代化を促しても、
支配階級がそれを拒否し、冊封体制から抜け出そうとせず、
ロシアや清ばかり見ている事大主義の国だったと思うので、
自主的に近代社会に発展できたとはとても思えないです。
▼館内図
▼韓国の戦後の歴史が展示・解説されていました。
また、以下のようなキャプションもありました。
日帝は日本人産業資本家の利潤確保のため、安い朝鮮米を日本に持ち去り、日本で生産された工業品を朝鮮へ持ち込んだ。
一方的に搾取されたような感じですが、
当時の朝鮮の農業は前近代的で収穫高も、米の味も、
内地と比べるととても劣っていたらしいです。
また、地主が階層的に存在していて、地主に収める米は小作人を大変苦しめていたようです。
そんな朝鮮の農業を東拓は近代化しようとしていました。
「東洋拓殖―幻の国策会社」にはこう書かれています。
(東拓は)・・・種子の改良に努めた。原種田を各地に設け純系種子を生産し、さらに採取田を設置してそれを種籾として毎年小作人に貸付けた。新種の発見に絶えず努力し、東拓米は内地米に比し、味・質ともに劣ることなく鮨米に使用される程になっていた。
従前の韓国の稲作は、田植えを行わない直蒔栽培も一部に残っていた程、日本のそれより遅れていた。東拓はまず正条植えを指導奨励した。これにより農業労働の能率が増進した。
「正条植え」の参考リンク
▼東洋拓殖 釜山支店は1921年設立とありました。
▼日本語でのキャプション。
また、著者の大河内一雄さんは次のようにも書いています。
・・・これらの農業土木工事の成果である、大貯ダム・大干拓農場は、現在でも朝鮮半島の各所に残って、食糧生産に寄与していることと思う。また東拓の農業移民と東拓の農業技術者によって伝播され、指導された改良農業技術は、受けつがれ、朝鮮農民の研究努力によってされに改良工夫され、新しい独立国の目覚ましい発展の基礎となっているのではないかと思っている。
*「東洋拓殖―幻の国策会社」は昭和57年(1982年)出版です。
東拓は、農業従事者への資金供給の金融も行っていたようです。
東拓の金融を利用したのは、両班に代わる新興地主が多かった。彼等は東拓より融資を受け、土地改良・農事改良・土地購入等に投じ、農業生産力を高め、重層的小作関係を打破し、直接管理経営を行い、収益をあげ、資産を殖やした。東拓の融資は彼等の資産形成に大きな役割を果たし、また農産物の価格安定に大きな役割を果たしたのである。
▼影島大橋の開閉の様子が展示されていました。
▼階段。当時の面影が残っていそうなので、パシャリ。
ただ、近代化が遅れていた朝鮮や朝鮮人を差別する日本人も多かったのも事実です。
東洋拓殖株式会社の設立委員会において、韓国統監の伊藤博文は「日韓共同の利益」と題し、
次のように演説したと「東洋拓殖―幻の国策会社」に書かれています。
本会社はいかなる方法によって韓国の農事改良に便益を与うるやと言うに、第一は資本の融通にして、第二は多年研究の結果に基く知識経験の応用なり。而してその日韓両国人に及ぼす利益は全く共同的にして、彼に重く之に軽きが如きことあるべからず。実際の事務に当る人々は深くこの点に注意を要す。
自分は従来韓国の財政経済を安固にし、各般の事業を徐々に進歩せしめて、いわゆる韓国財政経済の独立を期せんと欲するものなり。
拓殖会社は韓国の土地を日本人が奪うのであると間違った事を思う者が多い。且つ殊更に愚民を誘導して斯く誤解せしむる者も多い。
委員諸君は率先して左様でないと言う事を明瞭に国人に示すことが必要である。
この建物は、戦後、米軍に接収され、使用されていました。
韓国に返還されたのは1999年。
もし米軍に接収されていなかったら、保存されていたか・・・と思うと疑問ですが、
それでも、その後、保存・修復して残してくれたのはやっぱりうれしいです。
展示を見た後は、さらに深く日本と韓国の歴史について考えさせられました。
▼戦後の旧 東洋拓殖 釜山支店の説明。
▼東洋拓殖 釜山支店の模型も展示してありました。
▼戦後(?)の町並みを再現した展示もありました。
▼旧 東洋拓殖・釜山支店(釜山近代歴史館)を見学した後は、
歩いて釜山タワーに行きました。
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